お礼

個人ブログなので仕事のコアのことにはあえて触れていないのですが、会社の節目を避けるのもおかしな話。ご挨拶だけさせてもらおうと思います。

2008年3月6日、ネットイヤーグループは東京証券取引所マザーズに上場をいたしました。

マザーズは新興市場、高い成長性が求められます。さらに、上場会社にふさわしい内部統制やコンプライアンスなどの組織の成熟度が求められます。つまり、審査の過程では、業績と組織の両面が評価されるわけですが、昨今の不祥事などで、この審査がますます厳しくなっていると言われています。確かに、過去に上場を果たした会社関係者に聞いた話よりもずいぶんハードルの高い審査だったと思いました。昨年はIPOをした会社数が127社のみ、今年は100社をきるのではないかと言われているのも、株式市場のパフォーマンスというファンダメンタルの他に、業績と内部統制の両輪の舵取りが年々難しくなっている故かと推測しています。

この審査は、私にとって内部統制等を改めて考える機会となりました。間違ったことが嫌いで正しいことを求める精神だけでは組織はできない。フレームワークづくり、思いを標準化の仕組みに落としていく、経営として当たり前のことに取り組む機会があったことを幸福なことだと思いました。審査に関わってくださった皆様にお礼を申し上げます。

上場はひとつのマイルストーンにすぎませんが、会社が新たなステージに入ることには違いありません。これは、会社のみんな一人ひとりの頑張りの成果だと思います。ありがとう。ここまで大きくなれたのも、ご信頼をいただけたお客様のおかげです。ありがとうございました。投資家の皆様、こんなに長く我慢してくださって、ありがとうございました。

新興市場回復のためには、ベンチャー企業が大企業並みの高い倫理感をもって経営にあたるということが求められていると思います。これまで以上に、心をもって経営をしていきたいと思いますので、今後ともご支援を賜れますようよろしくお願い申し上げます。

間違える・・・よね

オフィスの1Fになぜか映画のちらしが置いてあった。Vanessa RedgraveとMeryl Streepという大物女優の競演なんていけそうということで、上映日に近くの映画館まで散歩することにした。

女優の競演ものは、数年前に The Hours 「めぐりあう時間たち」を見てから好きになった。1923年、1951年、2001年それぞれ違う時代違う場所に生きる3人の女性の悲劇的な一日を追う。Virginia Woolf役のNicole Kidman、主婦役のJulianne Moore、編集者のMeryl Streep。私は個人的にあまり好きになれなかったKidmanが開眼したような演技でアカデミー賞をとった。Meryl Streepの演技力はいつもながら頭が下がる。でも、一番よかったのは自殺願望のある主婦を演じたJulianne Moor。地味な役柄でも周りを巻き込む狂気が感じられて今も色んな場面が目の前に浮かんでくる。

前置き長くなりました。要するに、女優の競演に間違いなしという経験から、これもはずれないだろうと思って行ったのだが、はい、期待どおりでした。ストーリーに若干の無理があった気もするが、やはりMeryl Streepはすごいの一言。そうそう、題名はEvening「いつか眠りにつく前に」。死ぬ直前に人は誰の名を口にするのだろう。映画の中で重病の主人公が若い頃の自分を回顧する場面が続く。

私の人生は間違いばかり

と嘆く彼女にジャズピアニストらしき黒人が笑いながら言う。

間違いは人生を豊かにする

その数日後、元VCの社長さんにお会いしたとき、彼も同じようなことを言ってみえた。

失敗した人のほうがいい。人の痛みがわかるから

私も失敗文化の中で生きてきたので、間違いとか失敗は、謂わば、十八番なんだが、改めて感動。失敗文化というのは、シリコンバレーの話しで、失敗を許すとか失敗を学習するとか言うもの。でも、これは、極めてビジネス的な視点からモノを言っているのであって、敗者復活戦ありなんだよな、みたいな意味合い。それに、一度負けると勝ち方を覚えるからね、みたいな。

その点、「間違いは人生を豊かにする」というのは、さらに深い気がしました。特に偉ぶっていない、黒人ピアニストなんかにさらっと言われると説得力がある。こいつ、わかってるじゃん。

生まれてこのかた、成功しっぱなし、の人の話ってさぞかし面白くないだろうね。その上、転んだことないから、転ぶの怖いっていう気持ちが見えちゃったりすると、こっちも妙に緊張しちゃうしね。その点、間違った人は間違ったなんてことさえ言わないし、威張ったりもしなさそう。私が泣いても笑っても怒っても、大丈夫だよ、って言ってくれそうだ。

嫁ぐ妹へ

なんとなく古い感じのタイトルですね。実際に、古い話です。

中学生の頃、母の三面鏡の引き出しで一通の手紙を見つけた。実家は戦後に建て直した家だったのでずいぶん古い家だったが、部屋数だけは多く、使っていない部屋がたくさんあった。そのうちのひとつ、2階にあったその部屋に上がることはほとんどなかったと記憶しているが、ある日、何気なく、誰も使わない整頓された日本間に何が隠されているかちょっと探検してみたくなったのだと思う。そこで見つけたのがこの手紙だ。結婚前に、叔母(母の姉)から母にあてられた手紙らしい。私の母は、私にとって未知の人だった。無口で自分の意思を述べることはない。一日中微笑んでいるだけの母の気持ちなど知る由もなく、ましてや若い頃の話など聞いたことがない。その手紙から推測できる若かりし頃の母を想って私は好奇心いっぱいにその手紙を読んだ。

一方の叔母は、母と違って仕事に生きる人だった。大阪大学の薬学部を出て自分の薬局を経営していた。母同様に無口でやさしい人だったが、燐とした強さを感じさせる人でもあった。髪をいつも後ろに束ね、飾り気はない。80歳近くで亡くなる前日まで薬局に一日も休むことなく立っていた。白衣の叔母の姿しか見たことがなかったが、最後まで年を感じさせないはっとするような知的な美しさがあった。当日の朝、お手伝いさんが部屋をのぞくと、布団の中で静かに亡くなっていたという。最後まで誰に迷惑をかけることなく、与える人だったのだと思う。

その手紙には、嫁ぐ母に向けた言葉がいくつか書き留められていた。姉から妹へ向けた優しさと心配に満ちた手紙だった。中でも私が今でも覚えているのはこんなパートだ。

それから、○○ちゃん、顔はお湯で洗わないように。しわができてしまいますから。冬などは水が冷たいから水を使うのは嫌だと思うのだけれど、そんなときは、お湯で洗ったあと最後に一度でいいからお水で顔を洗いなおしてください。

嫁ぐ妹にあてるには、少々意外な文だった。他のパートは、朝は早く起きるのですよ、とか、お姑さんとは仲良くしなさい、とか、今では結婚といって、そんな価値観を持ち出す人のほうが少ないのかもしれないが、当時のあるべき姿みたいなものが書かれていたのに、この文だけが妙な忠告に思えた。でも、なんとなく、女性としての思いやり、いつまでも美しくあって父に愛されるように、というメッセージだったような気がして殊のほか私の心にささった。

私と叔母は当時でも数年に一回ほどしか会うことがなかったが、それ以来、私は叔母の忠告を守っている。天国の叔母はまさか私が顔を水で洗う習慣を叔母から教わったとは露知らないだろう。でも、寒い冬でも、最後にいつも水で顔を洗っているのですよ(笑)

なぜ、こんなことを書こうと思ったのかわからないけど、今日、ふと、この話を思い出したのです。

本が好き

彼の人が、毎週、本を届けてくれる。ずいぶんな読書家なので、一週間に一度、自分の読んだ本の中から私の好きそうな本を5冊・6冊と選んでくれている。私はそれを1冊づつ、通勤のバスに持ち込み読んでいる。至福の時間。

小学生の頃は、名作と呼ばれる古典が多く、高校生の頃からアメリカに行く30歳前半までは朝晩の通勤で文庫本を一冊読み終えて駅のゴミ箱に捨てるという毎日。それでも、自分の履歴書の趣味欄に読書と書くことはなかった。何故かはわからない。なんとなく、外向きでない印象が嫌だったのかもしれない。普通っぽい印象が嫌だったのかもしれない。趣味がない人たちが趣味欄によく読書と書いていたので、それと一緒にされるのが嫌だったのかも(笑)

そんな私が、アメリカに行ってからは本を読まなくなった。それまでの人生の読書分をゼロサムにするように。理由は、勉強や仕事で文字を読み続けていたことだと思う。PCの画面で読まなくてはいけない英語も嫌を助長した。文字が見たくない症候群。自分でも不本意だったがどうしようもない。

日本に帰ってからは、浦島太郎状態だった。本が好きな時代でも、私は本の選択は苦手だった。さらに、しばらく日本の本を離れていたので選択基準が全くわからなくなった。例えば、直木賞をとった人の小説なら安心とか、それなりの基準を設けてみるが、それでも失敗に終わることがある。結局、好きな作家の本を全部読んでしまうと、怖くて新しい作家にいけない。読書不毛の時代から低迷期に。

彼の人を見ていると、読書というものはこれほどのものかと驚かされた。その量、その人生へのインパクト。まったくもって「これ」が好きなのだ、という人に会うと、自分の中途半端さ加減を差っぴいても自信が持てるものだ。私は、本が好き、である。

彼の人が本を選んでくれることで、私の懸念事項は払拭されている。私のことを理解してくれているので、あたりはずれがない。しかも、人が本を選んでくれるということの素晴らしさを体感するのは、彼の人が、推理小説などを貸してくれるときだ。私は、読書に埋もれている頃でも推理小説など読んだことがない。自分の分野ではないと勝手に決めつけている。そういう心の壁をいとも簡単にはずしてくれる。人は一人で生きるより関わることで豊かになると思う瞬間。

本の中では、ずいぶんいい言葉に出会う。不用意な私はそれをどんどん忘れてしまう。もったいないから、時々、メモメモ。ずいぶん前に読んだ気がするけど、時系列的に覚えておかないと。

死んでるみたいに生きたくない

本の帯にも使われていた伊坂幸太郎のグラスホッパーの主題。

私は、自殺屋の鯨が好きだったようです。

バブルの続き

ブログの話題が堅いと非難集中にもめげず、続きです・・・。

信用経済と実体経済のギャップがいわゆるバブル。それにしたって、一般消費者がお金を使いすぎるくらいでマクロ経済に影響を与えるものだろうか?米国の国内消費は米国経済の3分の2を支えているので、もともと海外向けが多い日本より相対的にインパクトは大きい。私、Bushさんに以前500ドルいただいたことがあるんですね。メールボックスに500ドルの小切手が届きました。差出人「Bush大統領」です。彼が当選した直後の国内景気刺激策。なんてダイレクトな・・と思ったけど、国民消費(国民浪費かも)がアメリカ経済の主役を裏付ける話。私は、その考えは支持しないが、話が長くなるので、ここではその仮説のままで。

市場安定せず。未だ、出し切っていない損失は日本のバブル崩壊の比ではないとも・・。

一般消費者のサブプライム問題を引き起こしたいくつかの住宅ローンは、最初の数ヶ月は非常な低金利、その後、高金利になるように設計されている。いかにも手を出しやすく、それゆえ破綻しやすい。どうしてそんな商品を作るのかしらん。初めよくても長期的にみれば、返済が滞ればわが身に降りかかる。これら住宅ローンのターゲットユーザーは明らかにこれを使いこなせない。何故、いくばくかでも先の視野を持てないのか?売れればいいのか?

もともと、デリバティブはこれら信用経済をどんどん拡張する可能性をたぶんに含んでいる。商品の良し悪しだけではない。販売する企業の人事制度とか報酬制度が商品のゆがみをさらに助長する。これらローンの評価制度がそれから得られる利益ではなく、住宅ローンの販売金額であったとすれば、破綻も目に見えているというもの。自分だけが儲かる仕組みには常に落とし穴がある。

アメリカの住宅ローンは買い替えてもまったく手数料が発生しない。私の友人のベンチャーキャピタリストは、金利が低くなった2年ほど前、2ヶ月で7回ローンの組み換えをしたと言っていた。そんなことに時間を使っている間に仕事をしろよと言いたくなるが、住宅ローンの過当競争が低所得者層だけの話ではなく高額所得者をも巻き込んでいる。この買い替え需要は、結局、商品の発行側にはなんの経済効果ももたらしていない。それに加えて、時間単価の高いキャピタリストの時間を無意味なく消費、生産性を落としている。この人、いい人だから文句言いたくないのですが、つまんない、つまんない、ねぶたい、ねぶたい(リリー・フランキーばり)、新聞持ってこ~い。

サブプライムよろしく投資銀行が開発するデリバティブは世界中に販売されている。これら金融商品はどんどん高度になっている。ターゲットユーザーがそれを使いこなせるのか、それを販売する人たちの報酬制度、そんなプロセス全体を誰が管理・評価しているのだろう?

実体経済と信用経済

週間くらい前に、某メディア様向けに書いたのですが、その後、同じような議論があちこちで活発になり、なんだ、結局、そういうことなんだ、と自分でも納得した次第です。でも、実体験として here you go!

アメリカ経済の実態がサブプライム問題にとどまらないという懸念が年初から株式市場の世界的な暴落を引き起こしています。そもそも昨年から問題となっているサブプライムでは、特に低所得者層向け住宅ローンの焦げ付きが表面化した形ですが、年初からのそれは低所得者向けだけでなく、一般消費者のクレジットカードの支払い能力が問題視されるようになっています。高所得者層にリーチしているはずのカード会社American Expressが、貸し倒れ損を44000万ドル計上すると発表、当日、株価は10%下がりました。サブプライム問題は、アメリカ経済の実態という根源的な問題を論議するきっかけとなっていると思います。

私たち日本人がアメリカに暮らすとほとんどの人が日本との差異を大いに感じます。私の場合は、ちょうど日本のバブルが崩壊した1992年に留学のためにアメリカに渡り、それを経験することになりました。直感的にアメリカは豊かな国であると感じました。それは、日本とはかけ離れた国土面積を持っているアメリカとかつてウサギ小屋と称された自分たちの生活ぶりとの落差にとどまりません。私はとりあえず、その差は、豊富な天然資源ではないかと思うようになりました。事実、アメリカの低所得者層の暮らしぶりは悪くない(誤解のないように言っておくと、これは Silicon Valleyの場合を指しています。私は、ほぼ独立国状態の Silicon Valleyにしか住んだことがないので、他の地域を語る資格なしです)。それを支えている理由が他に思いつかないのです。農業や鉱業、天然資源の採掘自体が雇用を生み出しGDPに貢献する。原材料が安く手に入る。これらマクロ経済に影響を与える自然発生的な優位性を考えると、日本人はよくやっていると感動まで覚えました。

しかし、この感覚もアメリカでの生活が長くなるとところどころほころびを感じるようになります。日本とアメリカの実態経済の差異は、普段の生活で感じているところよりも本当は小さいのではないかいう疑問です。これが、まさしく現在、表面化しているサブプライム問題やクレジットカードの支払い能力という問題と同義になります。つまり、アメリカの実体経済は、実力以上の信用(クレジット)を消費者に与えることにより、レバレッジが効き過ぎているのではないかという懸念です。平易な例は、クレジットカードです。アメリカにいるとクレジットカードのDMが山のように郵便受けに届きます。デパートに行っても量販店でも高級宝石店でもカードをすすめられます。世の中は賢明な消費者だけで構成されているわけではありません。その結果、必要以上のカードを持っている人によく出会います。

クレジットカードのビジネスモデルは、そのステークホルダーがすべてWin-Winになるようにできています。クレジットカード会社は、店舗からのコミッションで儲かります。一般消費者が現金決済であれば今月は10万円を使おうとするところを支払いの期限が一ヶ月延びるというクレジットを与えられてしまうと15万円を使ってしまいます。店舗はコミッションをカード会社に支払ってでも消費が5万増えるほうが儲かります。そして、消費者は・・・よりたくさんの買い物をしてハッピーという構図です。しかし、このクレジットの感覚が過ぎると、実態以上の消費をしてこの Win-Win 関係は破綻します。さらに、クレジットカードには使用限度額以外にローンも与えられる仕組みになっているので、消費者の購買感覚はさらに実力以上に、レバレッジが助長されていきます。たくさんのカードを組み合わせ、ローンを借りまくる人たちが登場します。

そんなわけで、私は、アメリカ市場の動揺は、アメリカの実体経済と信用経済の落差ではないかと考えています。サブプライム問題だけでなく、消費全体に浸透した行き過ぎた信用経済、その調整は自浄作用をなくしているので、異なる経済主体である政府資金の投入という形で行われます。

それにしても、あの人たち、 使いすぎだと思う次第です。

天気のなせる成功体験

先日、雑誌のインタビューを受けていて「ストレスを感じない性格らしいですね」と言われ、ちょっとへこんだ。が、おっしゃるとおり、楽天的というか、物事をあまり気にしないというか、くよくよしないというか、嫌なことはすぐ忘れてしまうというか、あっさりしているというか、ストレスがたまらない性格というか(そのまま)、云々かんぬん、まあ、どれもちょっとニュアンスは違うものの、そんなところであることは同感です。本人も前から気づいてはいました。

しかし、昔からこんな性格だったわけではない。私は、小学校の頃は神経の病にさいなまれるほどけっこう繊細な少女だった・・・覚えがある。うろ覚えだけれど。

それが何故こんな風になってしまったのだろう?と実は今日考えていて、その答えが見つかったような気がするのでここに書きとめている。それは、今朝方、某会社の取締役会出席のためにバスに乗って地下鉄に乗って、そして、歩道を歩いているときに起こった。上を見ると真っ青な空なのだ。「いいお天気だなあ」 その時、私の心の中は真っ白。会社のことも家のことも何も考えていない。とにかくいい気持ち。そして、今更ながら、例のインタビューのことを思い出して、おっしゃるとおりだと思った。忘れられることはいいことだ。嫌なことばかり考えていたら、前にすすむ気など起こらない。どんな辛い時でも、ポカっと忘れる才能が必要。そうしたら、また、頑張れる。

そう。ストレスを感じない(?)のは、カリフォルニアの空のおかげ。シリコンバレーにいると、嫌なことがあっても、外に出るとすっかり忘れた。私だけではない。みんな、同じように絶叫する。そうだ、そうだ、この天気だよお!

人は学ぶ時に、成功体験が必要という。負けて負けての連続は人を強くするが、勝ち方を学ぶわけではない。勝つためには成功体験は必須。あの天気こそ、ストレスマネージメントの成功体験である。もちろん、それだけがじゃないけど、どう考えてこれは相当効きます。だから、辛くなったら、カリフォルニアに行ってください。

ライオンの気持ちが知りたい

消費者の意識調査。マーケティングの極意みたいに扱われがちで、昔からのメソッド=フォーカスグループとか、最近ではオンラインポールみたいな・・・その実は、消費者が真意を共有してくれることはあまりないと悲観的な意見を大御所のMadison Avenue の連中が思っているらしい、ということを某米国メディアが伝えていた。それじゃ、今までの提案は何だったんだ?マーケッター諸君よ!

それで、最近、広告代理店が異なるメソッドを使い始めているらしい。調査員が消費者と長い間にわたって時間を過ごす、つまり、家にいついちゃったりするらしいんだけど、そんなのありですか?

J.C.Penneyのプロジェクトで調査対象50人の女性の家で一週間あまり、掃除をしたり、買い物についていったり、夕食を作ったりしたらしい。まあ、そこで観察できるのは、そりゃ、アンケート用紙に回答してもらうそれとは違いますよね、ってことはわかる。調査にご協力いただいた女性たち、相当な役者でもなければ、行動だけでなく感情までそれなりにわかるというものです。おかげさまで、このキャンペーンはMadison Avenueのクリエイティブコミュニティーで賞をもらったらしいです。その広告代理店曰く(なかなか言いこと言いますよ)

ライオンの気持ちが知りたいなら、動物園じゃなくジャングルに行け!

「光合成」が英語で言えない

孟子の母は、教育熱心。孟子が幼い頃、その家は、墓の前にあったらしい。孟子は、墓堀人夫のまねをしてばかりいる。困った母は引越しをする。八百屋さんの前(ちょっと記憶があやしいので違っているかも)に引越しを・・。今度は、八百屋さんの真似ばかり。困った母は、塾の前に引っ越した。そして、孟子は猛勉強をする子になった。教育のためなら引越しも辞さない。まあ、今ではそんな例は限りないと言われるかもしれないが、私の場合も、子供の教育にはちょっとばかり拘りがあった。

そんなわけで、私も孟母三遷の教えをならってみた(笑) 義務教育の幼稚園(Kinder)の一年と小学校6年がセットになっているアメリカでの話だから、子供が幼稚園に入る直前のこと。アメリカは、政府がとても小さい。特に教育は地方にその制度を完全に依存している。政府が制定する教科書もないし、合衆国政府は、州政府に、州政府は地方政府に、地方政府は学校に、学校は先生に、ほぼ教育内容やカリキュラムまで一任していると言っても過言ではない。

だから、子供によい教育を受けさせようと思うと、いい私立(Private School)に入れるか、よい地方の公立 (Public School) に入れるしかない。アメリカの私立は日本と比べ物にならないくらい授業料が高い。小学校でも年間200万円以上はざらである。貧乏な私はそんな冒険ができるわけもなく、当然のように公立に行かせることにする。しかし、ここにも落とし穴があり、よい公立というのはお金持ちが住んでいる地域にあるのだ。つまり、お金持ちの両親の寄付金でよい教育がまかなえているというにすぎない。自然と住宅費が高い地域に住むという選択をすることになる。どっちみち無理ね、とあきらめないで、そこは子供の教育、必死で調査を開始した。その頃、Stanford大学の修士を終え、大学の近所に住んでいたが、一ブロック離れたところに引越しすれば、NixonというStanford大学の教授の息子や娘がわんさかいる学校に入れるらしい。そこになぜか安いアパートがあった。

 即、引越しを実行。おかげで子供を迎えに行くと、ノーベル賞受賞者の教授と挨拶をしたりすることが日常茶飯事となり、世界一楽天的と言われる私は、子供が持ち帰る宿題にも目を触れず、遺伝子のなせる業を熟考することもなく、ここで勉強すれば子供もノーベル賞かと、いい気になっていた。

ある日、小学校2年生になっていた子供になんとなく聞いてみた。

「ねえ、光合成って英語で何て言うの?」

私といえば、アメリカで勉強して仕事をして、早7年が経とうとしていたが、まあ、言い訳になりますけど、日常会話やビジネス英語はできても、語彙が少ないわけです。光合成なんて日常の話題にならないので、要するに知らないわけです。で、そんな言葉がふと頭の片隅をよぎると、手っ取り早く子供に聞いてみるのです。そうしたら子供は冷たく

「知らない。何それ?」

そこからが物語りの始まりです。

「何?知らないの?え?え?学校で何習っているの?理科でやったでしょう?」よくよく考えると子供が持ち帰るプリントアウトに理科の類が見当たらない。私は、他の学校を知らないので、要するにアメリカというのは、小学校低学年は「読み・書き・そろばん」に集中するのだと勝手に考えていたふしがある。そこで、友人に電話してみて、愕然とした事実を知ることに。

レーガン大統領が、カリフォルニア州の知事だった頃、大幅に教育予算をカットして、それ以来、カリフォルニア州の公立学校のレベルがどーんと下がったという話。おかげで、Nixonも理化の先生が雇えないままで教育を続けているという話。

そんな話を聞いてから、学校の制度をレビューしてみることにした。確かに、教科書はなく、つまり、教育は先生個人のハンドアウトに任され、それは、学年で統一されたものでもなく、カリキュラムさえ先生に一任されているという適当さ。子供の担任の先生など、何故か、ご主人が算数の授業を教えに来ていたり、そのご主人がたまたまヒスパニック系の方でスペイン語が母国語ということで、うちの子供のクラスだけ週に2時間スペイン語の授業があった。

すごく適当な性格ですね、とお褒めの言葉をたびたびいただく私も、これはやばいと思った。それで・・・引っ越しました。孟母に習って子供を小学3年生からHarkerという私立に通わせてみました。ここの学校は、うって変わって、30%の生徒がアイビーリーグに行くという徹底した教育校。詳細は、また、別に書くとして、持てないくらいの重さの教科書を使い、博士号を持つ先生がいっぱい、カリキュラムは他校の1年2年先を行く。それで、安心して、子供にもう一度聞いてみる。

「ねえ、光合成って英語でなんて言うの?」

「あー、それね、Harkerでは2年生で習っちゃったみたいで、僕は知らない」

ということは、この子は一生、光合成を習うチャンスがないのか・・・子供は今年17歳になったが、それ以来、怖くて、この質問をしたことがない。