子供の心、親知らず

1992年からアメリカにて経営学の修士をとり、その後、シリコンバレーで自分の会社を立ち上げた。アメリカに行ったとき連れて行った2歳の息子は卒業時には4歳に、ちょうど離婚したばかりだったので、それ以降は、シングルマザーとして子供との二人三脚だった。慣れないアメリカで教育もすべて初めてことばかり。ベビーシッターを雇って家をあけることがなんとなくできなくて、好きな映画に行くこともなかった。それでも、まったく苦にならない楽しい生活だった。

そんな生活が一変したのは、自分の仕事が突然日本ベースになったときのことだ。息子の教育を米国ですると決意していた私は、自分の日本での仕事がテンポラリーなものだろうと予測し、子供をアメリカに残した。日米を行ったり来たりの生活だったが、まだ小学生の彼にとっては、唯一の家族である私と過ごす時間を奪われる格好になり、その生活の変化は辛いものだったに違いない。当時、彼は10歳足らず。知り合いの人に最低限の世話を頼んで、日本での仕事に打ち込んだが、幼少の頃から思いやりの深かった子供は、自分のことより私の体を気遣ってくれた。アメリカに戻るたびに、笑顔で私を迎えてくれる。一度だけ、出発の日に涙ぐんだことがあったが、それ以外は、彼の泣き顔を見たことがない。

やがて、仕事が完全な日本ベースになった私は、中学生になった彼を日本に呼び戻した。意思に反した離れ離れの生活に終止符を打ち、私たちの生活も落ち着きを取り戻した。

今、彼はアメリカの大学を受験するためにエッセイを書いている。アメリカの受験では、通知表や共通テストの点数のほかにクラブ活動や奉仕活動、リーダーシップなど諸々の要素が総合して評価される。中でも学生が何よりも力を入れるのがこのエッセイの執筆である。求められる課題は、自分がいかに生きてきたか、自分の人生のゴールなど、これを書くために、高校3年生の生徒たちは、若くして人生の棚卸を迫られる。自分にとっての大きな出来事、その時何を感じた、自分がどう変わったか、などなど。人生を問い直すいい機会である。

先日、彼が書いたそのエッセイを見る機会があった。書き出しは以下のように始まる:

母は仕事で何週間も日本を訪れるようになった。両親は離婚していて、私は一人っ子だった。私は母がいない間、寮にあずけられていた。中学生と高校生のための寮に小学生の私が1人。見ず知らずの人に囲まれての生活が始まった。見ず知らずの人々は親切だった。それでも、やはり見ず知らずに変わりはない。彼らは食事や通学手段や住処を提供してくれた。でも、誰も自分が何をすべきか教えてはくれない。母が日本に行くたびに、夜になると、私は寮の片隅で泣いていた。できるだけ静かに、母の写真を胸に抱きながら。母が日本に行くたびに、私は少しずつ泣かなくなった。そして、徐々にではあったが、自分を信頼し、自分でやるべきことを決めるようになった。

いつも笑っていた彼。もちろん、その姿だけがすべてではないと知っていた。でも、仕事が忙しく時差にさいなまれる私をかばいながら笑いかける彼の笑顔に甘えていた。

それにしても、子供の心、親知らず。

とはいえ、このブログは涙なしでは読めないというコメントをいただいたので、付け加えます。私は、彼のエッセイを読んで、申し訳ないと思うと同時に、「受かった!」と思いました(笑)

「子供の心、親知らず」への2件のフィードバック

  1. なんかせつないなあ。つらかっただろうなあ。でもよくがんばった。図らずも彼にはいい経験になったのかもね。

  2. 鶴ちゃんだ。史上初コメントです。
    そだね。辛かったでしょうね。私もあまりに行き来をしていたため時差でハイパーになって一日中ゲームしてたりしていましたけどね(笑)
    原稿書けや~!

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