世の中、すべてアービトラージ(裁定取引)

私には、「世の中、すべてアービトラージ(裁定取引)」と言ってのける友人がいます。今この瞬間に、同じ商品で違う価格がグローバルなマーケットでは存在します。アービトラージで簡単な例としてよくあげられるのは、自動販売機です。自動販売機で売っているお茶でもソーダ類でも、それら飲料は日本全国同じ値段で売っているわけではないですよね。例えば、会社においてある自販機はかなり安い値段になっているんじゃないかな?80円?会社の人たちがたくさん買うだろうという目論見のもと、自販機屋さんも単価を安く設定してくれるのです。でも、通りにある自販機では、普通に100円です。だから、80円の自販機で買ったソーダを100円の自販機の前で90円で売れば、きっと売れる。なにも生産しなくても、自前の販路を持たなくても、差額で儲けられる仕組みです。

ソーダだと、1億儲けるのに、相当な労力と機会が必要だけど、これが金融市場となるとかなり短期間で儲けられることになります。日本の取引所とシカゴの取引所で同じ先物が違う値段で売られているとすれば、同時に2つのトランザクションを行ったら儲かります。今のグローバルマーケットで可能かどうか知らないけれど、それに似たようなことはまだまだいっぱいあります。サブプライムだって他のデリバティブだって、時間差と空間の差でアービトラージは可能です。そんな難しく考えなくたって、要するに情報を持つ人が勝つ市場になっているわけです。

それで、最近読んだ本によれば、ケインズとシカゴ学派を比較しているのだけれど、その本によれば、ケインズとシカゴ学派の違いは、市場にエラーが発生するかどうかという違いなのだそうです。かなり明快というか、変わった視点なのかもしれません。私たちは、インフレが起これば、どんな金融政策や財政政策をすればいいかということを学んだわけですが、それは、市場は間違いを起こすという前提があればこそですね。それは、シカゴ学派が市場はエラーのないものととらえているということでした。その理由は、貨幣というものが生み出されて以来、物々交換の原理と異なり、貨幣を蓄えようとする行為が発生することで、交換という単純なトランザクションの総体と違った結果が生み出される。結果として市場では間違いばっかり起こるというのがケインズの前提で、シカゴ学派は、みんな合理的に動けば市場はワークする、もしワークしなければ、それはやり方が悪いんだよ、、と言っているのだそうです。

しかしながら、結果として、あまりに多くのエラーが起こり、当事者中心の富の偏在を生みだし、損失をつくりだし、その補てんをするために、政府のお金、つまり、一般国民の税金と将来の国民の富を前借する形での国の国債が使われるという、かなり悪質なものになっています。資本主義以外にワークする仕組みがあるのだろうか?それでも、こんなに資本主義はエラーを起こす。

Wall Street

2007年11月28日のブログでゴールドマンサックスとメリルリンチの話題をとりあげたけど、昨日、Wall Streetを見て、映画としては、ちょっとがっかりでしたが、改めて、世界が置かれている状況を考えました。

ゴールドマンは生粋の投資銀行、メリルリンチは富裕層向けの証券会社。そもそも生まれが違うんだっていうことを前に書いた。リーマンのときに、大損をしたメリルと大儲けをしたゴールドマンの違い。富裕層の個人に対して会社が絶対に行ってはいけないことは、預かったお金を大きくしないことじゃなくて、大損をさせないことだと思う。だから、サブプライムが表面化したときに、少し下がったら売れ、また、カラ売りというようなハイリスクなことはしない。手数料ビジネスとはいえ、失敗すると顧客は離れていくので、冒険はおかさない。ゴールドマンも手数料ビジネスですが、個人に比べ法人向けはかなり一過性のビジネスじゃないかと思います。案件の価格も大きいので、少人数でかなりPLを膨らませることができる。リーマンではゴールドマンもやられたようだけど、下がったら売れのメリルと違って、下がったら下がったなりの儲け方があったということですよね。

これら投資銀行が規制緩和でPLからBS商売に変わり(2008年10月11日のブログに書いてあります)、様相が一変したことが、経済の今回を揺るがしているのだと思う。MITやスタンフォードのPhDを多く採用し、ありとあらゆる金融派生商品を作りだし、新しいビジネスモデルは増長していった。あの頃は、アメリカの友人たちがしていることを見ても、尋常じゃなかった気がする。だって、住宅ローンの組み換えを月に7回も8回もするんだよ。日本と違って、組み換えはただだから、より短期で安いローンに国民全員が走っていた。映画の中にも、負債の底が見えないという論議をしていたけど、それが実態であることは明白な事実だった。

サブプライムだけでなく、デリバティブの多くが同じ状況だったのだと思う。その売り買いは半端じゃなくて、A=>B=>=>C=>D=>B=>E=>C=>F=>G=>というように、オリジネーターがわからなくなるくらい実態のない商品が流通する。だから、あの映画のあの場面にあったように、当事者たちにも、底が見えない、損失額がいくらになるかわからない状況だった。その中で、特をするのは、これらデリバティブが儲かると見込んで、そして、上げ止まりまで介入をし続ける会社だけです。もっとも情報を持っているのは、もちろん、当事者です。

で、この続きは、改めて、ケインズとシカゴ学派の話で!資本主義のあるべき姿について・・・偉そうに言っているつもりはないんだけど、やっぱり考えてしまう今日この頃です。

日本が世界を救う日

昨年末に、親しい友人二人と会った。私の友人といえばIT系の人たちが俄然多いのだが、ファイナンス系の友人も何人かいて、彼らは、その部類の人たちだ。Aは外資系金融機関を経て、起業した友人。Bは国内の金融機関の経営陣の一人で仕事の大半を海外で過ごす。私は、実は一部の人の考えているほどファイナンスに強いわけではない。逆説的だが、とはいえ、一応ざーっと、かなり雑ですがw、ビジネススクールで勉強しているので、日本のファイナンス業界が米国のそれに比べ相当遅れていることは知っている。そんな私から見て、この二人は、日本のファイナンス業界の中でも、知識的にトップを極めていると思っている。早い話が、米国の投資銀行業務に精通しているのがこの二人なのだ。

その二人との会話がけっこう頭から離れない。何が起こったかいうと、二人が弱音を吐いただけのこと。しかし、私にとっては、この二人の吐いた弱音は重い意味を持つ。

詳しい会話は省くが、結局Aが吐いた弱音は、米国がリードしてきた投資銀行のあり方自体がぐらついているということで、Bが吐いた弱音は、銀行業務は結局実態が伴わなければならないということだった。

リーマン以降、表面上はインベストメントバンクはなくなってしまったわけだし、実態が伴わない経済はバブルの崩壊として私たちの生活に大きな影響を及ぼしているわけだから、なんらコメントに新しさはない。でも、彼らが言ったことは親しい友人としての私には弱音に聞こえたし、それは、つまり、業界の自信の喪失のように思えた。もっと言えば、彼らは自分たちが信じてきた原理が不変でなくなったと感じているのだ。

現実には、2010年は2番底が来ると言われ、それは避けられ、低迷していた日本経済も2011年は明るい予測が大方を占めているから余計なお世話かもしれない。

私もかねがね自由競争主義を肯定し、市場原理主義が悪いのではなく、そのやり方が悪かったのだと主張してきた。しかし、この市場原理主義がコントロール不能な複雑系になってしまったことがリーマンショックという結果を招いた。つまり、コントロール不能は、「やり方」ではなく、「市場原理主義に内包されている原理」ではないかと疑っているのだ。

新年から、暗い話題を出すつもりはない。何が言いたいのかというと、日本という国、その国民性、具体的に言うと、豊かさだけが幸福と思っていない希有な国民性が世界を救うこともあるのかなぁと予感たりもするのだよ。

グローバル競争において、まさしく敗者の烙印を押されている日本。世界経済の地盤が変容している中で、この国民性や文化をどうやって勝因にするかが、企業トップに求められているようは気が急にしてきたw 今年は、あまり単純に考えず、基本に戻って、教科書からもはみ出して戦略を立てよう。とりあえず、1月8日の会議に向けて、じっくり考えてみるよ。

ポジティブ

最近、日本だけが不況から脱せず将来も暗いと言っている人たちが多いのですが、そういうことって気持ちの問題でもあり、どうも、日本にはネガティブな人が多すぎる気がします。もっと、前向きに、前向きに!

事あるごとに言われるのは、日本の少子化問題。内需の低迷。

なぜ、これが問題なのでしょう?かつては、日本の製品など相手にされない時代にメーカーは市場を求めて欧米に進出しました。世界に類を見ないビジネスモデルを持つ商社にいたっては第3世界の誰も開拓していない地域にまでその道を広げ資源のない国日本に繁栄をもたらしました。

確かに労働力人口は少なくなるけれど、市場が小さくなるわけではなく、内需が小さくなるから成長が止まるなどという議論などやめましょうよ。

そして、昨日メディアの人と話していたら「そうはいってもね、石黒さん、円高はメーカーにきついですよ」っておっしゃって、確かに、130円が90円になれば30%減ですからね、、、でも、その昔は360円が250円になり180円になり80円にいくあたりはJapan as No.1だったのです。そんな情けないこと言うのやめましょう、と思います。そんなことを今日のパーティーでお話していました。

今日は、5回目の Thanks Party。お客さまのみなさま、お忙しい中、ご出席いただきありがとうございました。そして、ネットイヤーグループのみなさん、ご苦労さまでした。

現実的な政策を議論をしよう

まず、失敗の種類の議論をしよう。失敗には、原理(戦略)が違っていることもあり、やり方(オペレーション)が違っていることもある。今回のそれが何であったのか?

資本主義の崩壊、米国が率いた自由主義の失敗。言い方は様々でも、すべてが抽象的な概念論だ。

エラーは常に積み重なって発現する。米国では、本当の戦犯探しの議論が盛ん。戦犯は一人ではない。SEC、ファニーメイ(FNM)、金利を下げたグリーンスパン前議長、PLで勝負をしなくなった投資銀行、その元となった金融の規制緩和、数学や物理の博士号取得者たち、MBAたち、レバレッジ、幻想に惑わされた国民、そして、金融システム全体。誰が戦犯かなんて議論は今更不毛。または、面倒なので次の機会に。

過去数十年に渡り、Wall Streetは高度化する金融工学を用いて、リスクを軽減させる手段として、住宅ローンやその他の金融商品の証券化を行い、数々のデリバティブを生み出した。サブプライム。それ以上に今後金融界を震撼させるだろCDS。

結果として、リスクは軽減されず増加した。商品はあまりに複雑になり、中心的な取引市場は存在しなくなった。投資銀行の管理責任者でさえ、商品の価値の評価ができなくなった。

なんとなく、この議論をしていると近未来の遺伝子工学が引き起こす映画を思い出す。だれも真のリスクを理解していない。誰もがリスクを過小評価する。でも、結果はDisaster。そう、結果はDisasterだった。

だからといって、ここで議論が大きく逆にふれることが心配だ。1か0かの議論をしたくない。すでに、始まっている資本主義失敗の議論。米国至上主義終焉の議論。大きな政府の議論。市場経済の否定。

概念論や文化論を話す前に、政策論を話そう。産業を成長させるための活力は何かを議論しよう。保護貿易、既得権益の確保、保護主義に陥っていては成長は望めない。

投資銀行がバランスシートで仕事を始めたわけ

昨今の金融情勢は1929年以来の非常事態だから、メモが続きます。

前に、バランスシートで仕事しないはずの投資銀行が・・・と書いたけど、これは、半分間違いです。簿外負債があるという意味で。

バランスシートで仕事しないはずの投資銀行は、実際に、リーマンに限らず、バランスシートを十分膨らませていた、つまり、バランスシートで仕事し始めたという事実を、まず、重くみないといけません。

さらに、やはりオフバランス(簿外)も相当あったんだという事実も受け止めないといけません。今回は、最初のバランスシートで仕事をし始めたわけの巻です。

銀行には、商業銀行(コマーシャルバンク)と、証券業務をやっている投資銀行の2種類があります。

商業銀行は、私たちが小学校で習った銀行業務をやっています。つまり、預金者から借りたお金で、債務者にお金を貸す。預金者への利子より債務者への利子が高いために銀行は儲けることができます。

一方で、投資銀行と呼ばれる業務は、もともと日本の証券会社の業務と思っていいはずでした。

商業銀行は間接金融、投資銀行は直接金融という区分けもできます。

もともとの銀行業務をやっている商業銀行はバランスシートを使って商売をする代表のような企業です。お金を使って商売する企業ってあまりない。預金者から預かるお金を負債勘定に、債務者に貸すお金を資産勘定に計上する、こんなに多額のお金をバランスとして計上しておけるのは銀行をはじめとするファイナンシャル企業しかないのです。よって、バランスシートで仕事をするといわれても仕方ないわけです。

それに比べ、投資銀行のはじまりは、日本の証券会社と同様の業務ですから、フィービジネスです。顧客が株を売買する際のフィーや企業のIPOを助けることによるコミッションを生業にするビジネス。1億円の債権の販売をしたとしても、その5%をコミッションとして受け取るなら、バランスシートには1億円が計上されることはなく、利益として得られたフィーが年間を通して残ってやっと5%のみが載ることになります。直接金融といっても、お金は投資家から発行体に流れるから、その仲介をしているにすぎません。

バランスシートを使わないビジネスというのは、リスクをとらないビジネスです。リスクをとるのは、投資家だけです。

しかし、今回の金融業界崩壊で最初に表面化したサブプライムは、住宅ローンの一種ですから、本来は、商業銀行が発行していたもの。なのに、何故、投資銀行がどんどん破綻していったかと考えると変ですよね。

その理由は、住宅ローンが、金融商品の流動化とか証券化とかデリバティブと呼ばれる金融派生商品に変わっていったからです。ローンを実行したオリジネーターである商業銀行は、ローンが流動化したことにより、債権が不良化しても、その債権を投資銀行が買ったことにより、バランスシートから消えちゃったのです。そして、バランスシートに載るはずのない債権=>債務が、本来、バランスシートで仕事をしなかったはずの投資銀行のバランスシート上の負債に計上されたのです。

この金融商品の証券化が投資銀行のバランスシートを膨らませた要因です。この証券化した債権は、サブプライムに留まらず、あらゆる金融商品にまたがり、いくらバランスシートが膨らもうが、これはリスク分散と認識され、投資銀行の格付けは高いものでした。

だから、信用力があるとされ、低コストで資金調達もできます。資産を持たない投資銀行が、資産を持つことにより、より多くの収益を上げます。

どの商売よりも簡単。いいモノをつくるとか、いいサービスを売るとかには、開発にもオペレーションにも工夫がいる。でも、投資銀行業務の成れの果ては、バランスシートを膨らます作業、証券化して買い入れ、売り抜けるだけでいいのです。

しかし、サブプライムやデリバティブは同時に急激な価格下落をし、結果、流動性がなくなりました。サブプライムの価格低下で、他の金融商品もやばいと気付いたのが昨年あたりから、そして、隠れていた負債に数々金融商品が加えられ、同時多発的に破綻したのです。

昨日、久しぶりに元メリルのOさんとお会いしました。某監査法人が選定するベスト50社に選ばれ、Oさんがキーノートだったのです。

Oさんは、日本の証券界で、5年連続アナリストナンバーワンに選ばれている優秀な方で、当時、ネットイヤーグループの大ファンでいてくれた人です。仕事と関係なく、ずいぶん助けていただいたけれど、メリルが一度業績不振に陥ったとき、体を壊され、それ以来、お会いしていませんでした。すごく懐かしくて、パーティーの席では、ずっと私の横にいて、話をしてくれた。

彼曰く、世界のGDPの規模は54兆ドルだそうです。そして、株式などの金融商品は130兆ドル、そして、そして、デリバティブなどの派生商品の規模が596兆ドルです。農業、工業、ITなどモノ作りで得られた対価の10倍以上が、この信用で作られていたのです。

世界の経済って何?

アメリカ=>デフレスパイラル

世界10カ国協調利下げに株式市場反応せず(>_< ) こうなるともう手の打ちようがないですね。

アメリカは明らかにデフレスパイラルに入りつつあります。住宅ブームの頃は、まだ法定金利も高かったので転がしてもインターバンクで利益が出たのは先のブログのとおり。今は、金利をもう下げようもないのに、下げるしかないところまできた。

しかし、デフレで物価が下がるので、インターバンクの3ヶ月金利を0に限りなく近くしたとしても、物価が下がる分、実質金利は存在するわけで、高い金利に手を出して投資して金利を支払うより、投資を我慢して金利を稼いだほうがよくなるという思考が働き、企業の投資意欲は冷え込む。貸し渋りも始まるので、投資したい企業も投資できず。すべてが悪循環。

日本の土地バブルの崩壊の後と酷似していますが、今回の対応が早いといっても、隠れ負債がどれだけあるか把握しないままでは、その実効性は疑問。

さらに、その後の失われた10年が回復する理由は、大きな新興経済圏、中国が控えていたわけだが、今は中国もバブル崩壊に加え、ボロが至るところで見え始め、その成長性は極めて疑問。

資源国に頼りたいところだが、ロシアの先の発表では、ここも先が見えない。原油価格、大幅下落。それがデフレの一番の要因なのだから、資源国もぺけ。つまり、世界中にお金の置き場所がない。そして、株式市場は世界中で同じ動きをするようになったので、どの市場にも逃げ場がない。四面楚歌。

世界恐慌の頃は、世界各国が内向きの政策をとったので、回復が遅れた。とにかく、各国、協調してください。

新興市場はボロボロになっています。広告マーケットは企業の予算削減で大幅下落。ネット系さえ、成長率が低減してきたと発表が相次いで、大幅に下げています。ネット系の倒産の噂が水面下であり。また、下げること間違いない。

時価総額5億円が上場維持の基準。すでに、それを割っている新興企業多数。この経済動向は想定外と企業が叫んでも東証動かず。これを機に一掃したいムードさえ。日経平均1万円はまだまだ想定内との答え。役人、動かず。

Game over

先週シリコンバレーにいたときの挨拶は、「Rehman逝ったよね・・」だった。それほど、私たちの間でもこのニュースは驚きをもってむかえられた。発表されて翌日にChapter 11。

やはり、投資銀行の間では、Rehmanに関しての噂は流れていたらしい。・・と、ヘッジファンド系の友人から昨日、聞いたのだけれど・・。AIGの株は政府が買い取る。公的資金の投入75兆円って日本の財政予算に匹敵する。まるで、共産主義。Bear StearnsやMerrillやCitiのことを話していた頃に、まだまだあると言われていたサブプライムは、もう住宅ローンの話ではなく、アメリカの信用経済の話でもなく、アメリカがつくった資本主義経済の終焉の話だ。

それにしても、合衆国政府のやり方は、日本政府のそれと違う。例えば、AIGを救済して何故Rehmanをしないか?Rehmanの被害が他に及ばないというのが理由。FRBには、簿外を含めそう判断するに十分な時間があったということだろう。日本でも山一を倒産させた例があるとはいえ、徹底的に合理主義だ。まあ、この仕組みの中ではそうあるべきなのだろうけど、今は、仕組みのあり方が問われている。

アメリカは常にリーダーでありたがる。その裏には、利権が隠されていたとしても、国民をモティベートするのは、いつも、世界のリーダーであれという謳い文句だ。世界の果てに争いあれば、行って事を大きくする。しかし、今回のは、米国中心に活動しているファイナンス企業に対する不良資産の買い取りを、海外では他国の政府に同様の措置を期待するというアナウンスメント。リーダーであれば、何を要求していいのだろうか?

そうこう言っているうちに、今朝、それ以上のニュースが。GoldmanとMorganがホールディングカンパニーに。No investment bank left.傘下の証券会社では、Commercial Bankと同じ扱いで政府から融資を受けることができる。2大IBでWall Streetの再編。

声明を出したPaulson財務長官は、元Goldman CEO。HBS出身。今回の救済対象のMerrillのCEOもPaulson前の元 Goldman CEO => NYSE会長=>Merrill 。システムを運営していた張本人が、システムを抜本的に変えている。毎週末の決断をするたびに、自分のことを振り返らないのだろうか?それにしても、速さという点では、日本政府には絶対にできない芸当だ。今後は、アメリカがつくった資本主義をアメリカ自身が大きく統制経済に変えていくに違いない。

参加も自由、Exitも自由の経済は終わる。リスクはリワードの標語も終わる。オフバランスシートの活動は大いに制限される。貸し出しルールも強化される。スワップ・住宅ローンの証券化・不動産の証券化、ファイナンス系エンジニアが作った商品は、リスクを見えにくくするという点で、投資銀行のプレーヤーたちにだけ好都合なものだった。それを容認してきたのは、合衆国政府だった。簿外債務の管理が強化される。投資銀行は日本の証券会社のように単なるエージェントになるのか?

ルールは作っていない。ゲームを楽しんでいただけだ。そんなことを口走る人たち。End of Story。

デリバティブをつくっていたのは、私の友人たちだった。ほとんどがPhDを持つエンジニアたち。そして、デリバティブを売る組織を作ったり、運営をしたり、人事制度を作ったのは、まさに、私たちMBAが中心だ。

10年以上前に、彼らに「ねえ、ああいうの作るのもうやめてくんない?あれさ、実態ないよ。破綻するよ」って言っていたけど、言うだけでは何も解決しない。自分は何ができたのだろう。自分でなければ、誰が止めることができたのだろう。

過ちは繰り返される。わかってはいても、長年に渡って築きあげられたアメリカ流資本主義の成果がこれかと思うと言葉がない。経済全体に影響は及ぶ。一石を投じることもできなかった私たちは、この中で、どう戦っていく?

さきほど、三菱東京UFJがMorganの第3者割当増資を引き受けるとのニュース。再編に参入・・。

まずは、需要供給曲線の美しさを理解すること

最近、経済学部の先生とお話する機会が何度かあり、経済学の講義の主流がミクロであり、ビジネスでありという嘆きを耳にした。ふ~む。私の好みという点からしても嘆かわしいと同意する。

私の頃は、ケインズが主流で、そんなことを話すと「えっ、ケインズの時代?」と年を疑われたりするが、あのケインズが主流でなくなること自体、理解に苦しむ。完璧な理論、私はマクロ経済学を愛している。

要は、そんな理論よりも、実態だ。ビジネスに寄れということらしい(と私は先生たちの話から理解した)。やめてください。ビジネスなんてビジネススクールで学べる。経済学ではその基礎の基礎を教えてやってほしい。

経済学の授業を受けると一時限目で教えてくれるのが需要供給曲線だ。私は、この美しさに感嘆し、今だに一日一回くらい思い出しては、感動している。需要供給曲線というのは、とても簡単なグラフで、需要する側は価格が高くなれば高くなるほど買わなくなるし、供給側は価格が高くなればなるほど売りたくなるので、その交点で価格が決定するというものだ。

Web 2.0系の話で、大衆の集合値が叡智になりえるか否かという議論があったが、これは、Wikiなどに参加する人たちがすでに大衆の域を超えたモティベーションを持っている人たちだから成り立つ話で、一般的な人の一般的な行動というのはとても簡単なことで決定され、その集合値が需要供給曲線に現れているということ、つまり大衆理論なのだ。

別に人間の資質に上下があると言っているのではなく、誰もが時に大衆になり、時に自己実現をしたいと思うような高度な欲求も働く。しかし、マクロ経済の理論は多くの人がその多くの時間を使うときの行動学を基に考えられたもので、その上の小難しい行動は無視した、大衆理論でなくてはならないということだ。同じように、共産主義が発達しなかったのも、人間何をやっても平等であるなんて言われたら働く人はいなくなるわけで、ここでも、人間の根源的な欲求を理解しない人たちが経済学を説くので間違いが起こる。

経済学は、人間心理学。

はて、何が言いたいのかな・・。誰もがこのマクロ経済学を基礎として仕事をすると、もっと間違いがなくなる、と言いたいのかな。プログラミングしかり、経営然り、人の心を考えてやる仕事とそうでない仕事は結果が違ってくる。

それにしても、そう思ってやっているつもりなのに、なにゆえ、私には間違いが多いのだろう (~_~;)

情報取得の裁量権

先日、某TV局の方々とご一緒したときに、話題になったこと。実は、私も、そのことをよく考えるのだが、自分でもわからなくて、話に入るというより、ついつい黙りこくる。そして、5年後に思いをはせた。

インターネットの登場で情報過多の時代と言われる。誰もがメディアを持っているので数が増えれば相対的な価値が落ちるのは当たり前の話だ。需要は一定なのだから(正確に言えば、違う。ビジネスモデルとして広告サポート型が増えているので、課金モデルとしての需要はむしろ減っている。Bad news!)、供給過剰となり、価格は低下する。

しかし、私たちはこの有り余る情報をどう処理すればいいのだろう。新聞というのは、考えてみれば私たちの社会を20何ページの紙面に凝縮したすごい媒体だ。新聞にピックアップされる記事が、私たちの政治であり経済でありスポーツで社会だ。私たちは、毎日届けられる新聞を通じて、日本で起こっていること、世界で起こっていることを判断する。おまけに、なんら興味のないスポーツまでにも目を通すことになり、それなりの知識も得る。埼玉県で起こった殺人事件も報道されなければ、私の世界には一生飛び込んでくることはない。大げさにいえば、新聞社がピックする情報により、私の人格の一部が形成されていく。

新聞社の人と話していて改めて思ったことだが、彼らが何を一面にするかは毎日の一大事らしい。一面に取り上げられた記事で社会も経済も動く。それが、たとえオピニオンでなく事実であったとしても、何を一面に置くかには新聞社としての思想が反映される。テレビもこれと同じような性格を持つ。どのニュースをトップニュースとするか、どのニュースを放映するかで、人々は自分たちが置かれている環境を判断することになる。

わが社にも新聞社の人が取材に来てくれる。取材後、何日の何ページに載る模様と伝えられる。必ず、注意事項付きだ。当日、すごいニュースがあった場合には、載らなくなるかもしれません。悪しからず・・・。そう、情報の重みは彼らの判断に任せられている。

情報が国家により統制がされている国では、これがさらに顕著な事象となる。明らかに重大なことでも、情報は伝えられない。言論が捻じ曲げて伝えられる。それを受け取る国民は、現実を曲解することとなり、それが思想となっていく。

だから、既存のマスメディアは明らかに情報伝達の裁量権を持ったメディアだった。それゆえ、メディアには公正性が求められ、日本という国に生きている限り、ある程度はこの公平性が担保されていたのだと思う。

しかし、インターネットではどうだ?私は、アメリカにいる頃、Wall Street Journal を愛読していた。デジタル版ができたので、それをカスタマイズした。何に興味がありますか?答え:テクノロジーだけ届けておくれ!かくして、私のメールのInboxにはテクノロジーのニュースだけが届くようになった(今だにこれは変わらない)。情報取得が簡単になり私は嬉々として喜んだ。毎日の仕事が楽になった。

そして、私の世界は一挙に縮まった。テクノロジーだけの毎日。政治への関心・スポーツへの興味が自然に薄れる。少なくとも紙面を開き、それらの情報が強制的に目に飛び込むことはなくなった。そして、私の世界は深いが狭いものとなっていった。

いい悪いの議論と結論には、まだ何年もを要するのだろう。情報をピックする裁量権は個人の力にゆだねられた。平均的な情報というものがなくなっていく。